没落亭日誌

科学史/メディア論のリサーチ・ダイアリー

9 April 2019 / Dror, 2009, 'A Reflection on Feelings and the History of Science'

  • 一次史料からの引用集を作った。
  • 一次史料からの引用を整理しながら、やはりemotionの問題はsocial sciencesを巡る議論でも重要そうだという思いを強めたので、emotion & science系の文献をもう少し読む必要がある。
  • emotion, feelingなどがsubjectivityに属するものとされるわけだが、19世紀後半以降scienceがobjectivityに基づく活動だとされて以降、どのようにしてこのsubjectivityに属するemotionを飼いならすのかというのは、普通に科学活動一般の問題になったであろう。そこでは科学者による個人の心の統御が重要となる。こうした心の統御を科学者の重要な能力とする議論は、emotionalな存在として想定されていた女性が科学において果たす役割を制限する方向にも動いたと考えられる。ここでrational/irrational, objective/subjectiveみたいな区別の下でemotion、および女性を後者に割り振っていくという流れ
    • こうなってくると、興味深いのは植民地などでの原住民のemotionだろうか。emotionalなorientalという表象はわりとありそうな気がする。
    • 一方で、アジア系へのステレオタイプとしてはemotionをもたない機械=robot的なものというのもある。
  • White (2009) の議論で面白いのは、Darwinはわりと普通にやさしいお父さん的存在として家庭では適切にemotionを表出していたこと。普段emotionをもつ存在でありながら、それを必要であればコントロールすることができるという点で、emotionを欠いたmachineからは区別されていた。
  • しかし、Darwinのよりおもしろいのは、人間を対象する活動にといては、しばしば対象へのemotion(sympathy)が必要とされること。これは、医学によくみられる。女性の社会進出の一つの経路はempathyを持つ存在とみなされたことを利用したもの。
    • Nightingaleによるnursingの創出と統計学の関係性をemotionの位置という立場から考えることもできるだろう。
    • 眼前の患者に対してcompassionateであること、および病院経営やpublic healthの活動家としては集団レベルでのmanagementをすることの両立。
    • 医学史におけるemotionは結構流行ってるはずなので、だれかやってないのだろうか。
  • ひとまず、Paul WhiteによるIsisの特集「The Emotional Economy of Science」の続きとして以下の文献を読む。
    • Otniel E. Dror (2009) 'Afterword: A Reflection on Feelings and the History of Science'
  • 20世紀におけるemotionをadrenalineやexcitementとして記述しなおす科学の登場によって、emotionがobjectivityやrationalityと対立するものではなくなってきたという話は面白い。
  • excitementの科学的研究を行っていた研究者たちは、研究の一環として実際にexcitementを引き起こすものを体験してみたし、こうした体験してみることが科学的活動の重要な部分になったとされる。こうした科学的探究の方法としての「体験」というものは大変興味があるのだが、どこかにまとまった研究はないのだろうか。たしか、科学者が自分自身の体を使って実験すること(self-experimentation)について研究はあった気がするが。
  • MPIWGにKatrin Solhdjuという人物のそれらしいプロジェクトがあった。が、論文/本が見つからなかった。ドイツ語かフランス語でだされたのかもしれない。

www.mpiwg-berlin.mpg.de

  • 'Self-Experience as an Epistemic Activity: William James and Gustav Theodor Fechner'というのがMPIWGの紀要みたいなやつで発表された模様。