没落亭日誌

科学史/メディア論のリサーチ・ダイアリー

10 April 2019: White, 2006, 'Sympathy under the Knife'

  • 科学哲学・科学史ゼミ顔合わせ。博論の要約を発表することになったので、準備をしないと。
  • emotion系の続きでPaul Whiteを読む。

Medicine, Emotion and Disease, 1700-1950

Medicine, Emotion and Disease, 1700-1950

  • Paul White, “Sympathy under the Knife: Experimentation and Emotion in Late-Victorian Medicine,” in Medicine, Emotion, and Disease, 1700–1950, ed. Fay Bound Alberti (Basingstoke: Palgrave Macmillan, 2006), pp. 100–124.
    • 先行研究におけるvivisectionをめぐるサクセスストーリーのあらすじは以下のようになる。medical menはtender feelingsをmasterすることで、men of scienceとしての自己呈示に成功し、professionを確立した。
    • こういう議論においてはtruthのためにsympathies/compassionを無視することを学ぶことが重要なポイントだとされた。
    • だが、実際にvivisectionを巡る議論で問題になったのはまさにtruthの探求とsympathiesの関係性。
    • 医学者たちは医学内外からの関心にこたえて実践的/倫理的課題に答えないといけなかった。
    • このために持ち出されたのが医学的experimenterがanimal subjectsのfeelingsをexplainできるとい能力であった(!?)。
    • 1850年以降のphysiology文献においてfeelingsはreflext mechanimisとしてみなされるようになり、強いwillをもってコントロール可能なものだと理解された。
    • emotionの当時の生理学理論のせつめいはよくわからないのだが、結論としてlower animal/higher animal and humanの階層的区別が導入される。低級なanimalがemotional impluseに即座に反応する。それに対して、より高度な存在者はより強くemotional impluseに基づく行為の帰結についての検討などを通じて、the willのもとにself-controlできるという議論だった模様。
    • こうした理論に基づいて、道徳的目的のためにemtionをコントロールするということが可能になったもよう。
    • こうした議論はmindとwillについてのenergetic modelをめぐる言説の一部だった模様。これについてはダンジガーが参照されている。
    • こうしたenergyをいかにchannellingするのかという議論はHerbert Spencer, Henry Maudsley, Alexander Bain, Thomas Huxleyにもみられるらしい。lSpencerの社会理論におけるemtionの位置みたいな論文おもしろそう。
    • こうした議論においてbody/mindをコントロールする座はthe will。

      The will was the seat of government, presiding over the contest among the lower drives of animal nature, increasingly associated with the higher nervous centres in the cerebral cortex, yet still regarded as irreducible to them. (p. 103 / 引用文献としていかが挙げられている。Janet Oppenheim, ‘Shattered Nerves’: Doctors, Patients, and Depression in Victorian England (New York: Oxford University Press, 1991), pp. 141–51.)

    • 1850年代中盤から、こうしたmental physiologyがevolutionとむすびつけられ、emotionのevolutionみたいな議論が出てきたらしい。
    • ここから、Dawrinのemotion研究の話。原住民ひとびとがanimals, infantsと同じくpureなemotionの観察対象として選ばれていることが興味深い。女性は含まれていない

      When witnessed at first hand, affect could also arouse sympathies in the observer which disrupted the process of investigation. To obtain feelings in their pure form, Darwin chose animals, infants, and natives of Australia, Africa, and India – subjects in whom the emotions were thought to be the least checked by the acquirements of a higher nature and culture. He also introduced research tools such as the questionnaire and photography, which – it was believed – provided distance from his object of study. (p. 103)

    • 感情とその統御能力を巡るハイアラーキーの構築。この議論の度合いはfeelingsをreflex mechanismsとみなすことと、emotionを調査過程から排除するための研究テクノロジー(questionnaire/photographyなど?)。
    • 以下のまとめ、あまりよくわからない。人間を対象とした科学がreflexiveであることは普通だと思うのだが、ここでreflexiveであることが強調されないといけないのはなぜなのだろうか。

      This physiology was reflexive, for the scientific study of emotions was itself an exercise in the discipline and control of feelings. The power of experimenters to establish the basis of feeling rested on their power, gained through the methods and instruments of science itself, over the mechanical, sensible body. (p. 103)

    • 研究におけるself-registering deviceの導入。sphygmograph [/ˈsfɪɡmə(ʊ)ɡrɑːf/]=脈波記録器。これ以前のものとしてはmercurial kymograph[/ˈkʌɪmə(ʊ)ɡrɑːf/]=動態記録器があったが、これはどうもartery[/ˈɑːtəri/]=動脈にささないといけなかった模様。
    • こうした自動記録装置がphysiologyの科学としての権威(physicsとの関連、precisionの印象)を作り出したのかについての研究はすでに多くあるようだ。重要。
      • Soraya de Chadarevian, ‘Graphical Method and Discipline: Self-Recording Instruments in Nineteenth-Century Physiology’, Studies in History and Philosophy of Science (1993), 24, pp. 267–91;
      • Frederic L. Holmes and Kathryn M. Olesko, ‘The Images of Precision: Helmholtz and the Graphic Method in Physiology’, in M. Norton Wise (ed.), The Values of Precision (Princeton: Princeton University Press, 1995), pp. 198–221;
      • Robert Michael Brain, ‘The Graphic Method: Inscription, Visualization and Measurement in Nineteenth-Century Science and Culture’, Unpublished PhD, University of California, Los Angeles, 1996.
    • こうした科学的活動における感情の排除はLorraine Dastonとも重なる。だが、physiologyにおいて起こったのは、単なる排除ではなく、実験者の感情が研究のための装置や技術の上に投射された(?)。
      • ここで、Victorianにおける知識への渇望と、客観性のもとに知の主体を抹消しようとする照度を上がいた以下の本が挙げられている。George Levine, Dying to Know: Scientific Epistemology and Narrative in Victorian England (Chicago: University of Chicago Press, 2002).
    • 実験マニュアルの分析。豊富な実験器具の図版。実験過程からの動物の排除と実験器具(の繊細さ)へのフォーカス。
    • ここでまさかのMichaekl LynchのSSS掲載論文が引用されている。
      • Michael Lynch, ‘Sacrifice and the Transformation of the Animal Body into a Scientific Object: Laboratory Culture and Ritual Practice in the Neurosciences’, Social Studies of Science (1988), 18, pp. 265–89
    • 身体の延長としての実験器具、しかし実験者自身とは区別される。
    • public demonstrationでは実験される動物に聴衆のsympathyが集まる危険性を考慮して、sympathyの対象となりにくいカエルが好まれたらしい。
      • カエルかわいそう。実験動物としてのカエルについては論文があるらしい。
      • Frederic Holmes, ‘The Old Martyr of Science: The Frog in Experimental Physiology’, Journal of the History of Biology (1993), 26, pp. 311–28.
    • 逆に犬猫は危険であり、1874年のBritish Medical Association大会での実演はRoyal Society for the Prevention of Cruetly to Animals (RSPCA)による抗議を受ける。
    • Frances Power Cobbe (1889) The Modern Rack. Papers on Vivisectionによるvivisectionの暴力性の告発。
    • Cobbeの戦略は実験家のものと大きく異なったようだ(が、あまりよくわからない)。man of feelingと呼ばれる伝統が参照されたり、spontaneous impluse of sympathyをもっとも重要とみなすcounter-evolutionaryな理論が参照された模様。ここではsympathyの拡大が進歩の尺度としてつかわれていたようで、近親者から国家、世界中の人間、そして動物へと拡大された模様。
    • Cobbeは実験家のheartlessnessを攻撃するだけでなく、(通常は下層民にみられると考えられていた)brutal passionsに向けた。
    • Cobbeは(支配階級の)科学者たちの科学的行為に付きまとう冷たさだけでなく、そうした真理を追求しようというpassionが科学者を飲み込んでしまうことの批判を企図していた。
    • domestic animals(特に犬?)に対する愛情は道徳的良さのしるしとしてつかわれることがあるとともに、Englishnessとも結びつけられていた(?)
    • vivisectorsは他者に対してunsympatheticなのではなく、military commanderのようなdisciplineを施されているというカウンターナラティブ。

      Like military commanders with countenances steeled for battle at public school, vivisectors underwent a discipline that left them not unsympathetic to the feelings of others, but poised, knife in hand, before grave problems of life and death. This military model, in which the conquest of tender feelings was essential in a struggle against the forces of death, gave a legitimate and triumphalist gloss to the kinds of passions that the critics of vivisection denigrated as selfish and inhumane. Here, the sacrificial subject in the laboratory ritual was not the animal, but the experimenter, who undertook such exhausting and unpleasant labour entirely for the sake of others and at risk to himself. (p. 111)

    • 別の方法でvivisectorsを擁護する方法は、動物たちの感じるpainを切り下げすること。動物たちのsufferingsに対するscepticalなaccountの提示。
    • phisiologyの教科書がpainをorganism's automatic responsesに含める(なぜ、これがきりさげになるのかはよくわからないが)。1850年代以降は、動物のcriesとかstrugglesはreflextive responsesだとするもの(これはわかる)。
    • Thomas Huxleyのanimal=automata説への関心などが傍証として使われる。
    • 一見冷酷に見えるが実は優しく同情的なvivisectorと、一見苦しんでいるように見えるが実は苦しみを感じていないanimalという逆転図式の呈示によって、vivisectionの問題性をクリアした、という議論。(p. 112)これはかなり面白い主張。

      According to their expert testimony, vivisection was an act in which scientific men could be sympathetic without showing it, while their animal subjects could make a display of feeling without having any. (p. 112)

    • George Lewesの証言などが示している別の問題は、動物のpainを目の当たりにして、それに共感してしまい医学生のうちにわきあがるpain。
    • 動物のpainを無効化する方法としての麻酔。このテクノロジーによってvivisectionをhumaneなものとする。
    • 麻酔の登場は外科医手術を最後の手段という地位から上昇させ、医学活動を変革した。
    • だが、麻酔の使用には、実験結果をcompromiseするのではないかという批判もあった。
    • また、麻酔の使用が単なる対象のコントロール可能性をあげることを目指されたこともあったので、麻酔の使用はただちにanimalのpainへのhumaneな関心を意味しない。
    • だけなのかという問題があった。vivisectorは麻酔の使用がhumaneな関心からでたものであることを示す必要があった。その失敗例としてのEmmanuel Kleinのケース。(pp. 113-114)
    • anti-vivisectionにおける女性の役割。animal protection運動は女性の運動だとされることがあるが、これは端的に間違い。だが、女性が重要な役割を果たした数少ない活動の一つであったのは事実。
    • 重要なことはanimal protectionを女性と結びつける言説が女性を感情的なものとみなす当時の医学の産物であったこと。(p. 115)

      But the persistent identification of the cause with women is also an artefact of the gendering of emotion within medical science. It constitutes a legacy of these debates which ensures that women continue to be regarded as reservoirs of sentimental feeling, and therefore as liable to clouded judgment, a source of ignorance, and ineptitude in scientific matters. (p. 115)

    • sympathyを女性の特質とすることで、vivisectionを批判する男性をunmanlyと排除すること、同時に公的空間で医学専門家集団に異議申し立てする女性を女性役割からの逸脱としてunwomanlyとして排除することという二面作戦がとられた。
    • 女性の公的活動を私生活における還元させる方法。

      Prominent women like Cobbe were accused of looking to animals to supply the love they had failed to awaken in men. (p. 115)

    • 実際の発言

      'Let my adversaries contradict me, if they can show among the leaders of the agitation one young girl, rich, beautiful and beloved, or one young wife who has found in her home the full satisfaction of her affections.' (cited in p. 116)

    • 一方で、真理の探究のためのlaboratory lifeに対する懸念というのも医学者の間には存在した。それは、医学というものが何らかの方法で、ひとびとを救うということに対してむすびついていなければならなかったから。
    • patientsがscientific subjectsとして扱われることへの拒否感。
      • ここでSusan E. Lederer, Subjected to Science: Human Experimentation in America before the Second World War (Baltimore: Johns Hopkins University Press, 1995)という人体実験についての研究が引かれている。どのようにして、治療やケアの対象であるpatientsを実験対象であるscientific subjectsへと変換するか、そうすることでそれに携わる医学研究者が倫理的重荷を解除できるのかという操作は研究トピックとしてもおもしろいし、実践的にも重要な気がする。
  • White (2009)と重複があったが、こちらのほうがおもしろい。
    • 前回出てなかった論点としておもしろいの以下。
    • 真理の探求のためのpassionがsympathyによってコントロールされないと危険だといったanti-vivisection派の懸念。
    • laboratoryという空間がどのようにそこにいるメンバーを訓練するのかという話でもある。laboratoryの歴史系だと、laboratoryがつくりだすnormativeな空間みたいな議論はわりとされているが、それが感情統制の場であるという話はあまりされていなかった記憶がある。
      • truthへの暗い情熱と、laboratoryという感情を排除された空間の構成、みたいなのは、マッド・サイテンティスト的の存在可能性みたいな話に聞こえる。
  • Paul Whiteの研究、かなりおもしろいのだが、所属がよくわからない。CambridgeのDarwin Correspondence ProjecdtにResearch Associateとしているらしいのだが、教員ではないのかな。
  • 1996年にChicagoでPhD取得。進化論研究のRobert J. Richardsが指導教官、Dastonがcomitteeだったっぽい。